妄想と現実のはざま

私の黒歴史な日記置き場

「魔女の宅急便」をしみじみと見た

 「魔女の宅急便」を久しぶりに見たんだけれど、しみじみと面白かった。


 最後に見たのは小中学生のころだったか。宮崎作品の中では地味な印象で、あえて見返そうという気にもならなかったんだけれど、映画好きの友人が、
 「宮崎駿は悪い意味で巨匠になってしまった。もう魔女の宅急便のような作品を作ることはできないだろう」
 となんだか熱く語っていたので、見てみようと思ったのだ。

 冒頭から、場面場面の宮崎監督的演出が、思いのほか、記憶に深く刻まれていることがわかった。
 お馴染みの空を飛ぶ演出は、物理学的な異常さに反し、とても心にかなっていて、感情移入せずにはいられない。
 犬に怯えるジジが、冷や汗をとめどなく流すのがかわいらしい。
 おばあさんと協力してつくったニシンのパイが、孫に喜ばれないシーンは、私を含む多くの日本人のトラウマになっているはずだ。

 今さらになって、その細かい作りにはじめて気がつくようなところもある。
 オソノさんの主人公への接し方は、一人立ちするための修行という領分をおかさないよう、ちゃんと一定の距離を置いて接していて、逆に思いやりにあふれているように感じられる。
 主人公がふさぎこんで帰る場面では、帰りがの遅いのをオソノさんとご主人が心配してくれているのに、言葉少なに部屋に閉じこもってしまう。まわりにまで気をまわせないところに、主人公の未成熟さみたいなものをうまく描いている気がする。

 宮崎駿のすごさは、やはりその演出力なのだと、あらためて思う。
 物語は、「ひとり立ち」、「恋心」、「自己実現」みたいなテーマをさくさくと小気味よく消化していくのだが、ともすれば安易で陳腐な青春物語が、出来すぎた宮崎演出のために異常な説得力をもってせまってくる。いや、むしろ、普段なら決して受け入れるような気持ちになれない素直すぎるテーマだからこそ、美しく描かれると、自らに跳ね返ってきてつらい。
 未熟だけれど、人間的に誠実であることで、お客であるおばあさんと心を通わせられのを見せつけられると、自分自身がさまざまな面で不誠実だったことを思い出す。
 飛ぶという能力に挫折を体験し、絵描きの友人と才能について語り、そして真摯な努力と真剣さによって乗り越えるられたりするのを見ると、私はどこに向かってなにを努力してきたのかと途方にくれてしまう。
 荒井由実のエンディングテーマが流れたとき、不覚にも涙があふれときてしまったのは、美しすぎるストーリーに自らのやましさが照らし出されたせいなのかもしれない。
 宮崎監督の意図が、混沌とした現代に対して、牧歌的な成長物語を再興することにあったとするならば、私はそれに完全敗北したといって良いだろう。往年の宮本監督の演出力をもってすれば、仮に、それがどんなに間違ったメッセージであったとしても、私は涙を流しながら、それに賛同した気分になるのだろうというべきか。


 さて、はたして最近の宮崎駿は、悪い意味で巨匠になってしまっているのか。
 ちょっと私には遠大すぎるテーマなので、特に感想もないのだが、神殺しのような出口のない遠大なテーマをかかげるよりものちの大作が描く遠大なテーマよりも、やたらパンチラする主人公の安易な青春物語のほうが嫌な意味で胸にせまるなあと、ぼんやり考えた。